INTERVIEW
福井店・前川オーナーインタビュー
前川 俊一
前川 俊一 オーナーの開業STORY
福井に生まれる。
福井県に生まれ、育ちました。
父が転勤族でしたので、石川県で2年ほど住んでいた時期もありますし、中学3年から大学卒業までを東京で過ごしましたが、それ以外は福井で過ごしました。
中学のときに見た森田健作の剣道のドラマに憧れて、「これ、男らしくていいな」と中学から剣道部に入部し、3年間頑張りました。
中学3年のとき、父が東京の新宿支店に転勤になって、それが一つ自分の大きな人生の分かれ目になったというか、「これは東京に絶対行った方がいいな」という思いがありました。
小学生の頃、金沢市のすぐ隣の石川県野々市市に2年半ぐらい住んでいましたが、そのときは有無を言わさず親が「連れて行く」と一緒に引っ越すことになりました。
中学校1年のときに、今度は父が富山県の高岡支店に父が転勤になり、そのときは祖父・祖母がまだ健在で、福井に住んでいたので、「ついていかない」と言って福に井残り、地元の中学に行きました。
ただ、中学3年のとき、父が新宿へ転勤になり、「どうする?」と聞かれたとき、自分で決めた決断は「やっぱり東京」でした。東京なら違う自分というか、知らないことがいっぱいありそうだなと父についていくことを決めました。
中学3年夏に上京。驚いた環境の変化。
上京してびっくりしたことがありました。
中学生のときに始めた剣道でしたが、体力もそんなになかったので、地元にいた頃は自信がある方ではありませんでした。でも、東京では、いきなり3番手、4番手ぐらいなれた。
剣道以外でも、たとえば水泳大会のリレーで「ちょうどあと1人足りなかったんだよ」とリレーメンバーに選ばれたり。
スポーツでも勉強でも、何か「認められる」というか、結果が出るようになった。
だから東京に出て、自信をなくすより、逆に何かむしろ「普通よりできるんだ」「ただのもやしっ子じゃなかったぞ」そんな自分に気づくことができました。
受験は、普通の流れだと都立高校を受けるところでしたが、父が転勤族で、その父から「たぶん2〜3年したらまた転勤だろうから、大学受験のときは1人で東京に残ることになるぞ」「そうなると大変だろうから、私立大学の付属高校を受けておけ」と言われました。「レベル的には6大学ぐらいだったらOKだ」と言ってもらったので、慶應、早稲田はちょっと手が届きませんでしたが、明治にたまたま受かった。明大中野に進学。高校卒業後は、エスカレーターで明治大学に進学しました。
エスカレーターで明治大学に進学
大学に入ると、もう日々飲み会ですよね。
テニス部と言う名のテニス同好会に入ったのですが、それがいわゆる地方出身の人たちばかりが集まっている同好会。もう男の世界。美味しいビールを飲むために、日中テニスをする。チャラチャラしている感じではなく、ちょっと体育会系というか、とにかく「汗を流して、美味いビール飲もう」そんな感じ。練習の後はほとんど飲んでいました。女子はほとんど来ないですよね、そんな飲み会だから(笑)
いろいろなアルバイトもしました。アルバイトでいろいろな仕事を経験することで、自分のやりたいこと、将来の仕事について考えられたらいいな・・・そんな思いもありました。
いろいろな仕事をやりました。ケーキ屋、土方、警備員もやりましたし、ソフトクリームを売りました。事務系はやらなかったかな。ケーキ屋の社長からは、「もう就活しないで、うちに就職しろよ」と誘われたぐらい働いていました。
福井へのUターン就職を決断
東京での生活は楽しかった。楽しかったのですが、同時に「自分が一生暮らすところじゃないな」という感覚もありました。
だから大学3年の頃には、「福井に戻って就職先を探そう」と考えるようになっていました。
手っ取り早く県庁とか市役所とか、そういう固いところ、公務員系に進もうと勉強を始めました。ですが、バイトが忙しくて勉強どころではなくて、結局公務員試験は受けたものの全然できませんでした。ただ、公務員試験の勉強は、その後の就活には役に立ちました。
福井では商社系、銀行、リコーやキャノンなどのOA系など将来性がありそうな業界を受けました。
結果、ほとんど内定をもらうことができました。
学生時代のアルバイトの経験から、何をやるにも最初は知らないことだらけで全くできない状態から始まる。でも最終的には「頑張ればやれる」。いろいろな仕事を経験する中で、「人に認められるぐらいは頑張れる」という気持ち、自信みたいなものが少しあった。
だから、銀行であろうとOA系の会社であろうと、営業であろうと事務系であろうと、何か「自分はできる」という思い込みがあった。その中で、面接していただいた方の印象で決めました。銀行の担当の方が一番印象が良かった。
それで、銀行への入行を決めました。
「一生食べていける仕事」を希望し、地元の銀行に入行。
福井で就職を選ぶからにはそれなり・・・というか、一生食べていけるような会社に入りたいと考えていました。
ですから、福井県内でも、いわゆる上場しているような会社ばかり選考を受けていて、銀行もそのうちのひとつでした。
最終的には、面接での印象も非常によかった銀行を選択したのですが、実は銀行が何をしているのか、当時は全く知らなかった。
「何をやっているかわからない」というと、悩む方も多いのかもしれませんが、私は逆でした。イメージがないことが逆に良かった。
私の父も銀行員で、仕事の話、たとえば部下の育成がどうとか、評価がどうとか、人事の話で悩んでいることはあっても、仕事そのもので悩んでいるという話を聞いたことがなかった。それも判断に迷わなかった要因だったかもしれません。
逆に、入行してからは、「これ、なんだ!?」とびっくりしましたよ。
当時の銀行は、9時にシャッターが上がる。それなのに、「7時に出勤しろ」と言われるんです。出勤して、まずはお掃除。周辺の草取りからスタート。いわゆる庶務係みたいなスタッフは支店にはいません。だから、新入社員が全部しなければならない。
同期は4人いましたが、男性は私だけでしたので、力仕事系は私の担当。机を拭くとか、茶碗を洗うとか、お花を飾る、とか、そういった仕事を同期の女性社員がやってくれていました。
それを毎朝2時間やる。ちょっと想定外でした。
それに、当時は土日も休みではありませんでした。土曜日も仕事。土曜日もお昼まで営業して、それから片付けて、夕方には帰る、そんなサイクル。
ちなみに、「1円ズレているから、1円探す」、本当にやっていました。
現金が合わないというのは滅多になくて、合わないのは勘定です。
だからまず「何が合ってないんだ?」から始めます。
すると、大概現金は合っている。勘定が合っていない。例えば「”9”が”7”に見えた」とか、「“69”を”96”って読んでいた・書いちゃった」とか。
それを全部探す。突き合わせしていって、合っているやつは外していき、最後に「これだ」と。
必ずベテランの先輩が「これだ!これじゃないか!?」「これ”6”じゃないだろう!」と発見する。
気がついたら夜中の11時半とか、12時とかになっている(笑)
そんなことが年に数回ありました。
ちなみに、大晦日も営業していて、その当時、年末の数字が、支店にとって大事な数字でした。だから、年末の夜中まで集金に行かされた。大晦日の夜9時、10時に年内ギリギリ、最後の集金に行く。集金が終わって会社に戻ったら、それを全部勘定に打ち込む。何百万でも1千万でも2千万でも何とか増やそうとする。
その年末の数字で支店長の評価が変わるわけです。
最初の配属支店が地元の商店街近くだったので、むしろ商店街の皆さんも、三が日にお金を家に置いておくよりは、銀行に預けた方が心配ないってことで、むしろ年末の集金を喜んでくれ、渡してくれたのは良かったです(笑)
23歳で入行しましたが、結局は57歳まで34年間勤めました。
融資畑が長かった銀行でのキャリア
その当時から、ジョブローテーションが始まっていました。新入社員に色々な部署を回らせて、関わりをもたせるためです。
最初は庶務から始まって、次は集金。町内や役所等の集金に行く。それから受付。いわゆる窓口業務ですよね。窓口にはベテランの女性行員がいて、何年目かの女性行員がいて、新入社員は一番お客さんが少ない3番目~4番目ぐらいの窓口に練習で座らされる。
払い戻しがどうといった、もう単純な窓口業務なのですが、その頃はまだ機械化されていませんから、お客様が持って来られたお金を手作業数えて、お客様が書いてこられた伝票と合っているかどうか自分で確認して、合っていたら引き出しにしまう。
1日が終わると引き出しのお金を全部出して、伝票の入りと払いの差額、朝に両替用にもらったお金を引いた差し引きが合わなきゃいけない。それがまた例によって「1円、2円が合わない!」「どっかないかな!?」「落ちてた!」「“9”が”7”に見える」そんなことをやるわけです。
最初は半年サイクルでローテーションし、融資系に移ってからは1年サイクルでした。
ただ、そのサイクルは、向き不向き含めて上司が判断していたと思います。融資の部署に行っても営業ばっかりやらされる人もいたし、僕は営業の仕事は集金を半年くらい経験しただけで、早々に融資をやらせてもらっていましたから。
だから、銀行でのキャリアは、融資畑が長かったです。
今でも活きている支店勤務時代の“勉強”
当時、ジョブローテーションは別で、もうひとつ制度・・・名前は憶えていないのですが、自分で勉強できるような制度がありました。
銀行協会が出している通信教育だとか試験だとか。「財務何級」だとか「経済何とか何級」だとか、そういったものが将来昇格要件に入ってくるというのを先輩から教えてもらい、先輩が一生懸命勉強しているのを見て、「僕も何かやりたいです」と相談したら、「じゃあ、これからやってみな」と勧めてもらえて、勉強を始めました。
半年に2つずつくらい受けていたら、最初の3年間、支店にいる期間だけで10個くらい資格に合格できました。
法務とか財務とか、誰にも教えてもらっていないのに、通信教育使って自分で勉強して、試験を受けて、合格した。そういう姿を上司が見て、「融資をやらしてみよう」と思ってくれたんじゃないかな?と自分では思っています。
余談ですが、たとえば簿記をきちんと理解しきれているわけではないのですが、決算書は何となく読めるんです。基本がわかっている・ポイントを押さえている、というのと、融資畑での経験、本部の融資チームで実際分析の経験、そのおかげで読むことができるようになりました。
そのときの経験は、今、個人事業主になってからも活きているなと思います。
40代で支店長、50代で本部の監査チームに。
結局は、40代で支店長になりました。
その前に、融資チームに異動になって分析をしたり、法人センターという部署で金融庁対策をしたりもしました。法人センターには3年ぐらいいたのかな。
金融庁が、「おかしな会社は潰しなさい」と銀行に言ってきた頃があって、潰さないなら潰さない理由を「合理的に説明しなさい」と説明責任を問われる、そういった時期があった。
銀行も、融資をしている以上は簡単に潰せない。でも、それを合理的な理由をもって説明しないと突っ込まれる。法人センターというのは僕は「そのためにできたのではないか?」と思っていました。というのも、私がいた銀行の大手・大口融資先の上位何十社、それで全体の7割ぐらいの融資を占めていたのですが、それを十数人で担当するわけです。
向こうも必ず決算書を見て突っ込んできますから、それに対してこの数字は「なぜおかしくないか」を合理的に説明しなければならない。もしくは、おかしいのだけれども、「こういう理由を確認しているから、今改善をさせている途中だ」と説明する。その方法として、「こういうものをうちから提案しました」と示せば、「次回のときに確認させてもらいますね」と納得して、その年は帰っていく。
その次回以降の確認の時に、本当は支店の担当者が説明しなければならないのですが、それができない。だから、大口先だけをその法人センターという部署に集めて、我々担当者をずっと変えずに長期で担当させてクリアしていこうと。1回だけ合格もらってもダメ。要するに、「まだ合格じゃない、△だけど、今回見逃してあげるから、次回の結果を聞くまで、結論は出しません」と言って帰っていただいたものに対して、2回目で合格をもらう。そんなことをやっていました。それが支店長代理を2店舗くらい経験した後です。
その後、40代で支店長になって、ずっと支店長として営業店を回らせてもらいましたが、法人センターでの仕事で認められたこと、それが自分にとっては大きかったのかなと思います。
純粋なプレーヤーとしてやっていたのは40歳ぐらいまで。支店長になってからは、マネジメント系の仕事がメインでした。
50代の始めぐらいまで支店長。
そこからは、本部の監査チームに異動になりました。今度は営業店を回って指導をする臨店チームのチームリーダーとしての仕事です。当時、70〜80あった支店を毎月何十店舗か回って、不正がないか、営業方針はおかしくないか、人材育成をちゃんとできているか、もうそういうことをすべて、支店それぞれに担当者がいて、その担当者が調べてきたことを私がヒアリングしてまとめて各支店の評価をしたり、役員に報告したり。
特に不正に関しては、やっぱり厳しくやっていました。
朝早く、それこそ8時前に行って、支店長が来たら「鍵開けてください」「まだ入らないように」と言って、私たちが入って全部机の中を引き出しから全部調べて、おかしなものがないか見る。問題がなければ、「次、金庫開けてください」「他の人入れないで」と言って、その状態で本当にお金が合っているかどうかチェックする。そういった仕事をやっていました。
55歳で役職定年。出向。打診された転籍。
銀行での仕事は、「大変で逃げ出したい」と思ったことはあまりありません。
でも、本当に寝られないくらい大変だったのは、やっぱり金融庁対策でした。
(チェックが)入っている2週間くらい、その間は本当に毎日朝早く出勤しますし、チェックを受けたところを合理的に説明すると違うところを質問されて、「これ、いつまでに資料揃えられますか?」「明日まで」と言ったら、今度はその資料を翌日までに提出しなければならない。
それが一番大変でした。精神的に大変ではありましたが、それでも2週間で終わりましたから、おかしくならずにすみましたね(笑)
50代前半から内部監査のチームにいたのですが、55歳になると役職定年で手当がなくなり、お給料が下がる。半分とは言いませんが、6割ぐらいになります。その分、かんたんな仕事に回されていく。
支店長経験者だと外へ出されます。「取引先に総務部長で行かないか?」「経理部長で行かないか?」という話は必ず来ます。それで、1年間出向になる。私も1度出向しました。
出向して1年経った後に、「どう?転籍する?」と言われて、私は「いや、(銀行に)帰ります」と答えました。
銀行に戻ってからは、事務センターで検証ばかりしている。朝から晩まで融資の契約書が間違ってないかを検証する。そんな日々でした。
「がっちりマンデー!!」がoh庭yaとの出会い
ただ、50代に入ったころから色々と自分の将来のことを考えていました。
まずは体力をつけたいと思って、朝ジョギングを始めたり、バウンドテニスというミニテニスのような室内でやるスポーツを始めたりしました。
ジョギングを継続して、福井マラソンを走るまでになったりもして、ちょっと体力に自信がついてきて、「将来転籍とか出向とかじゃなくて、何か自分で仕事を始められるかな」そんなことも考えるようになっていました。
出向した後、銀行に戻って1年ちょっとくらい仕事をしていましたが、その間もネットで独立について調べて、色々なフランチャイズの説明会に参加しに大阪に行ったり名古屋に行ったりしました。畳や襖の張替えとか、ハウスクリーニングとか、エアコンクリーニングとか、様々な業種の話を聞きに行きました。
そんなときにたまたま「がっちりマンデー!!」でoh庭yaさんに出会ったんです。
oh庭yaさんが取り上げられているのを見て、本当に「すごい面白そう!」と感じて、すぐネットで調べたら、フランチャイズの募集をやっていた。
すぐに問い合わせして、(FC開発本部の)中村さんと大阪でお会いしてお話を伺いました。
中村さんに「何か質問ありますか?」と聞かれて、「庭師の経験なんて本当にゼロなんですけど、できますかね?」と聞いたら、「誰でもできます」「僕もそうでしたから」と言われて、「そうか、できるんだ」と。
私は、「誰かができることは自分もできる」という考え方です。
それはもちろん努力することは大前提です。得意なこと、苦手なこともある。
でも、誰かができていることは、自分もできる。「努力さえすればできる」と単純に考える。
だから、中村さんがニコニコしながら「できますよ、誰にでも!」言われたときに、「これはできそうだな」と本当に思いました。
なんというか、職人さんになりたかった。職人的な仕事をしたかった。
パン屋でもいいし、寿司屋でもいい。襖張ってもいいし、畳でもいい。そういう職人的な、自分の手でする、体でする、そういう仕事をやりたい…という思いがありました。
でも、職人になるためにどこかに修行に行ったとしても、修行の間は飯は食えない。
だったら、フランチャイズって、言い方は良くないかもしれませんが、手っ取り早いと考えた。
ノウハウを持っていて、教えてくれて、ある程度市場があって、仕事を紹介してもらえる。あとは自分がそのノウハウを使って営業さえすれば仕事が取れる。フランチャイズのことをそう捉えていました。
たとえば、「庭師、前川です」と言ったって、誰も仕事を頼まない。でも、「oh庭yaサテライトショップ福井店」という名前だったら、きっとどんな人でも電話してみようと思う。「庭師始めました、前川です」とタウンページに出したって誰も電話したくないですよね?自分だったらしないですから。
だからフランチャイズというのは自分にとっては魅力的で、入口としては「絶対ありだな」という感覚でした。
そんなに面白い?草むしりが?
様々なフランチャイズの説明会に参加する中で、ポイントになったのはやっぱり先行投資でした。
退職金は入っていましたが、まだ息子が大学生。いろいろと計算してみて、200〜250万円までだなと。なくなっても、消えてもいいお金はそこまでだなと。だから、250万円の先行投資でできる事業に絞り込みましたが、意外と少なかった。
oh庭yaさんは、「道具はいくら?」と聞いたら、「数十万あれば大丈夫です」と教えてくれて。軽トラックも必要だから調べてみたら、中古で100万円くらいあれば買える。しかも軽トラは「やっぱり俺、無理やった」となって辞めるときには売ればいい。
そう考えると、「全然いけるな」って割り切ることができた。
また、非常に印象的だったのが、がっちりマンデー!!に出ておられた女性スタッフの方でした。
蚊に刺されながら一生懸命草むしりをしていた。「こんなに一生懸命やるんだ、草むしりを」と驚いた。
若い女性が蚊に刺されたのに気付かないくらい一生懸命やっている。「そんなに面白い?草むしりが」と、なんとうか、引き込まれました。
加盟して、名古屋に泊まり込みで研修を受けに行って、そこで増島会長にお会いしたとき、最初のお話が「一番最初は草むしりだった」というお話。「初めて出した草むしりの見積が大変なことになった」「2日も3日もかかった」というあのお話が大好きでなんです。だから自分は草むしりとか草刈りのご依頼が来ると「来た来た!」という感覚。嬉しくてしょうがないんです。
「木も手入れして欲しいけど、草も絶対やってほしい」とおっしゃるお客様は多いですし、草を綺麗にしてあげるとものすごく喜ばれる。木は「素敵な剪定ですね」なんて言われることは滅多にないし、良くて「すっきりしました」で終わりですが、草は「こんなに綺麗にしていただいて!」とめちゃくちゃ喜んでいただけます。
「この枯葉、僕がやったやつじゃない、前からあった…」
研修で印象的な出来事がありました。
生垣の刈込の研修で、刈込をして、それから、掃除をしました。
仕上がりを研修担当の矢野さんに確認したら、「生垣の下にほら、枯葉があるでしょ」と言われた。
「この枯葉、僕がやったやつじゃない、前からありました…」と言うと、「それもしてあげるとお客さん喜んでくださいますよ」と。
「そうなんだ!」とハッとした。だから、その言葉はずっと忘れずにいます。絶対に元々ある枯葉も全部持って帰るようにしています。見積に入っていようが入っていまいが関係ない。そこは必ず掃除して帰る。
会長のおっしゃること、実際現場で研修をしてくれた矢野さんの発言や行動、蚊に刺されながら草むしりしていた女性スタッフ、すべてが繋がっているなと感じました。
研修が終わって2週間後、6月15日に開業を迎えました。
しばらく暇だった開業当初
開業当初はしばらく暇でした。
「自分で何か営業しようかな・・・」とも思ったのですが、結局はしませんでした。
営業をせずに何をしていたかと言うと、近所や福井市内のホームセンターを全部回って、そこで売っている苗木をずっと見て回っていました。
というのも、木の名前もほとんど知りませんでしたから、「こういう木をお客さんは自分の庭に植えるんだろうな」「これは●●っていう木なのか」と眺めて回りながら覚えるようにしていました。
それと道具。「どんな道具があるんだろう?」と。
本部から教えていただいた道具は一通り揃えてはいましたが、いろいろな道具を見て、せっかくだから「こんなのも買ってみようかな」と見て回っていました。半分遊んでいるような雰囲気で過ごしていましたね。
そうこうしているうちに、1ヶ月経たないくらいかな・・・本部から「こういうご依頼があります」とお仕事をいただいて、それからポツポツと入るようになっていきました。
1年目は、8月に少し落ちついたのかな。
それと冬の雪。12月の後半くらいからみぞれが降り出したりします。
「積もったからできない」のではなくて、「降ってなくてもいつ降ってるかわからない」というのが北陸福井の冬場なんです。だから子供の頃、冬場には、「弁当忘れても傘忘れるな」と言われていたくらいです。
だから、雪のシーズンは問合せ自体少ないですし、問合せをいただいても、「緊急ですか?」と私の方から確認するようにしています。「今やっても、雪が降ったり、吹雪になっては、駄目になる可能性があります」とお伝えする。雪が溶けるまで、「3月の半ばぐらいまで待てませんか?」と逆にお尋ねするんです。
もちろん、どうしても「伐採したい」というようなケースは、お客様のご要望に応えて対応しています。
開業してからの仕事をすべてデータに打ち込んでいる。
開業してからずっと、対応したお仕事のリストを、エクセルに打ち込んでいます。
この表を作り始めた理由は、開業当初暇だったというのと、「時間」です。
要するに、年次で「去年の4月何していたんだろう?」と表を見て振り返る。
すると、「あのお客様、今年はやらなくて大丈夫なのかな?」「いや、絶対に必要だ。去年これだけやったんだから」と適切なタイミングでお客様にお声がけするため。それが大きな理由です。
最初はあんまりしつこい売り込みはしないようにしていました。
でも、何回かお伺いするうちに、親しくなったお客様には連絡するようになって、すると今度は向こうから連絡してくれるようになりました。
「今年は大丈夫ですか?また必要だったらおっしゃってください。」とお伝えしておくと、本当に必要なときにお客様からご連絡いただけたりする。
あとは、月ごとにどのくらいの量をこなせたのかも可視化しています。
件数を見て、「楽したな、この月は」とかね。
去年ぐらいからはどうしても体力的にきつくなってきている。特に夏場なんかはきつくなってきているので、今までだったら平日週5日動いていましたが、1日休みを増やして週4日に抑えたりもしていて、そういったこともわかります。その分、見積や書類的なことを土日に集中的にやっています。
お天道様は見ている
あるお客さんのところでお手入れしたときに、近所のおばちゃんが見に来て「うちも次、やってくれる?」と声をかけてくださったことがありました。さらに、そのおばちゃんの息子さんが違うところに家を建てて住んでらっしゃって、「そっちもやってほしい」と息子さん夫婦の方からも言っていただきました。
いわゆる、営業をしなくても、その地区でお客様が広がっていった。それは非常に印象的でした。
福井店は、空き家の仕事も結構増えています。空き家のお手入れを2~3年継続してさせていただくと、今度は「自宅もやってほしい」というご依頼につながっていく。先日も、「滋賀の実家をお手入れしてほしい」とご相談いただいたので、FC滋賀店に対応していただきました。
そういったお客様が2〜3人いらっしゃって、めちゃくちゃ嬉しかったですね。
『oh庭ya』というブランドは、「ちゃんとやってくれるんだ」というのを、自分も体現できたのかな?という嬉しさがありました。
仕事に取り組む中で、死んだ自分のじいちゃんから言われた「お天道様は見てるぞ」という言葉を常に意識しています。
だから、人がいないところで仕事をしているときこそ、なおさら見られている時以上にきっちり丁寧に確実にやること、それは常に気にかけています。
近所の方が実は見ておられて、「うちも頼む」とおっしゃっていただけたりするのは、多分そういうところだと思います。
例えば、「休憩ばっかりしている」とか、「人の敷地の中で勝手にタバコを吸っている」とか、そういう態度があれば見られているでしょうし、そういったことがないということをわかって、それでご注文いただけるのだろうと思います。
空き家の場合も、もちろんお客様のお宅やお庭を自分の家の庭のように思い、お手入れをする・・・というのを考えています。「自分が大切なものだったらどういう風に扱うか」「どういう対応をするだろうか?」を常に意識する。
矢野さんの枯葉の話じゃないけど、「もし自分の家で、今掃除してもらったのに枯葉だけ残っていたら嫌だよね」と考える。
特に空き家の仕事をご依頼いただくことが増えてから、余計に思います。
ご近所の方は、「あれ?誰か人がいる」「空き家のはずなのに」ときっと思われる。その時に、怪しくないというか、きちんと仕事をしていれば、私に対しても「ちゃんとした人がやっているんだな」という印象を持っていただけると思いますし、その家の所有者さんに対しても、「空き家でもきちんとした人に頼んで管理しているんだな」と思ってもらえる。両方の印象が良くなりますよね。それが大事だと考えています。
辞めたくても辞められない仕事
本当に大変な仕事ではあるのですが、松の剪定なんかは、1年半くらい前から楽しくて仕方ありません。
もみあげをやっている時のなんとも言えない感じ、たまらないです(笑)。
びっくりしたのはクスノキ。
目の前で枝がポキって折れたことがありました。
自分の体は安全帯で幹のほうに行ったのですが、一瞬宙に浮いたような、落ちたような、グッと体が軽くなる感覚になって、肝を冷やしました。
脚立に登るとき、降りるとき、この2つは気を付けるようにしています。
もう7年目が終わり、6月16日から8年目に入ります。
学生のときに自分に合う仕事を探していたという話をしましたが、あれから50年がかかり、「あ、今、自分に合う仕事をしている」という実感があります。
「これからまだまだ続けていける」「続けていきたいと思える」そんな仕事にここにきて出会えている。
本当は、57歳でこの仕事を始めたときに、目標は「とりあえず5年間やりきるぞ」と思っていました。
でも、気が付けば5年が経ち、62歳になった。そのときにもう一度「あと5年やろう」と決めて、今年64歳になりました。あと3年。その時にどう思うか。
体力的に落ちてきているのもよくわかっていますし、今年からは年金ももらえますから収入的にも少し落ち着きます。でも、多分お客様から「やって欲しい」とおっしゃっていただけるだろうなと思うので、できる限り対応していきたいですね。
だから、どこかで「新規のお客様はもうお受けできません」となる可能性はあるかもしれません。
「福井店はリピーター様だけの対応でお願いできますか?」となる時がもしかしたら来るかもしれない。
でも、それは物凄くありがたいことだなとも思います。
新規のお客様からのご依頼を受けられないという側面はありますが、裏を返せば、リピーター様だけで成り立っていくということ。継続して頼んでくださるお客様がいるから続けることができるし、いい意味で「辞められない」とも言える。
たとえば会社組織だったら、首を切られることもあれば、役職定年で給料ががくんと減って、しかもやりたくない仕事をやらなければならない環境に置かれることだってある。
でも、今の仕事は、自分が辞めたくてもお客様から呼んでいただくから辞めるわけにはいかない。「必要とされるなら頑張っちゃうかな」って思えます。
独立するからには、予算をきちんと考えておくことは当然
私が独立開業するにあたって、初期投資、予算の面は大きかった。
自分の考える予算の範囲でできること、あるいは駄目になったとしても後悔しないこと、そのためにもお金の面は重要でした。
「やりたいことをやれば幸せ」ではなく、もし失敗したときに、退職金や資産を失ったときに、「その夢をちょっとでもかじったから満足できる」と思えるのであれば良いのですが、全く駄目だった時に本当に後悔しないか?という点はやはり大事かなと思います。
開業最初、仕事がなかった時期も、予算を考えてスタートしていましたから、1年~1年半くらいは仕事がなくても大丈夫…そんな余裕を持って取り組むことができた。
逆に言えば、そこさえきちんと考えておくことができれば、絶対に始めて損はないです。とにかく楽しい。
お客さんが自分のことを認めてくれる。自分についてくださる。自分の腕自体も上がっていくから、仕事自体もどんどん楽しくなっていきます。
夢が広がっているというか、良いことが広がっていくのは間違いない。間違いないからこそ、その前にお金が尽きてしまってはもったいない。
個人事業主として独立する覚悟というのは、営業ももちろんですが、最終的にはお金の管理を自分がやらなければなりません。
技術的なこと云々、営業云々の前に、お金の管理だとか、資金の余裕、そういった面は、50歳過ぎてから何かに挑戦しようと思うなら当然必要ですし、「独立するとはどういうことか」を理解しておくことが大事だと思います。
57歳からでも未来を描くことができ、長く続けられる仕事
でも、そういうことさえきちんとしておけば、むしろ長く続けることができるし、未来を描ける仕事であることは間違いありません。
体力がつきますし、oh庭yaの仕事を始めてから、腰痛もなくなりました(笑)
もちろん、作業を一生懸命やった後、1日2日筋肉痛…ってことはありますが、腰は全然痛くなくなりましたし、膝も良くなりました。スポーツをやっていた時より今の方がむしろ体が丈夫になっている気がします。
サラリーマンを辞めてoh庭yaを始めた当初は、暇があってジムに通っていた時期もありましたが、今はジムいらずです。
剪定して掃除して、軽トラまで枝葉を運ぶ。何往復もする。それだけでも、ジムで走っているよりも、負荷がかかっていますから。
57歳から始めて、力もつくし、年々技術も高まっていく。
お客様と継続してお付き合いいただけるので、一昨年、昨年、今年と伺うと、自分が剪定したものの変化、「今年はどうなっているかな?」というのを自分の目で見ることができる。
すると、「もっとこうしたほうが綺麗だったかな」とか、毎回毎回学びが蓄積されていきます。
自分がやったことをその後の木の成長から学び、これからも積み重ねていきたいと思います。
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